「WEP俳句通信135号(2023年)」より

「道」 感動する心を磨く

主宰 田湯 岬

 「道」は昭和三十一年に北光星を中心とした、九名による同人誌「つぶて」として誕生した。

その主張は

①     北海道の厳しい風土に根ざした開拓精神をもって俳句活動をする。

②     俳句の持つ低次娯楽性を排除する。

③     俳壇に強力な文芸思潮を盛り立てる評論活動と、創作活動を展開する。

④     生活を基盤とする抒情俳句を開花させる。

という四点であった。

 

狙わるる寒土の族火を焚けり           北 光星

枯山の険しさを追う鷹の眼ぞ                〃

砂利採りのマッチがともる冬の河    中村耕人

 

「つぶて」創刊号にある作品から。六十七年を経た今日でも、色褪せることのない荘厳な感覚が伝わってくる。当時の俳壇では北光星は前衛的ではあるが、前衛ではないという評価をされていたようだ。北光星の言を借りれば、有季の完成を無視して無季の精神はない。定型の厳粛を逃避して、破調、自由律の精神はなく、伝統を理解せずに前衛の精神はないと言い切り、作句実践のなかで、俳句は型、型は心、心は伝統という信条に達し、十七年後の昭和四十七年に主宰誌「道」を創刊した。以後、二代目主宰源鬼彦、三代目主宰田湯岬にその精神は引き継がれている。

 

 澄みゆくは無への一念水鏡               源 鬼彦

 農道はただ真つ直ぐに大刈田               〃

 孤島へと空は一枚吾亦紅                      〃

 

「道」令和二年一月号から。源鬼彦が入院手術を受ける前の最後の作品である。源鬼彦は北光星の「俳句は型、型は心、心は伝統」のうえに「俳句とは風土が生む命の起き臥しから授かる詩である」を標榜し、冒頭の「つぶて」創刊時の精神を実践のなかで発展させてきた。

 その源鬼彦は令和二年五月に、七十六歳という若さで急逝した。時あたかも新型コロナウイルス感染症の最初の緊急事態宣言の最中であり、文書による持回り会議で、第三代の「道」 主宰に田湯岬が就任した。

 

 銀河超え次の銀河へ師の旅は             田湯 岬

 忘れられ数戸ひつそり碇星                    〃

 畏友逝く月天心の港町                            〃

 

 北光星は生前『俺はもうすぐ死ぬ。次は鬼さんにやってもらう。しかし、鬼さんもやがて死ぬ。そしたら次は岬、君がこの「道」を継ぐのだ』と言っていた。

 その北光星は平成十三年に七十八歳で急逝。その時「道」の編集長だった源鬼彦が主宰となり、田湯岬が編集長となった。それから二十年間源鬼彦と田湯岬が車の両輪となって道俳句会を牽引してきた。

 また多くの幹部同人も北光星以来の生え抜きなので、道の俳句そのものが変わるはずもなく、厳しい風土に根ざした開拓精神を持った句。生活を基盤とした抒情俳句を目指し今日に至っている。

 

 笹起きる島を巡りて湧く詩情           金田 一波

 ものの芽や一気に大地押し上げて   北林由鬼雄

 里山の光りのゑくぼ木の根明く       中森 千尋

 

 最新の「道」六月号より。金田一波は九十五歳。利尻島に居住し「道」の支部をつくり、自分の後継者となる若手の作家を育て未だ健在。笹起きるという北海道の独特の季語とその時期に島めぐりをして希望の光を頂くという。北国の春への喜びが強く感じられる。

 北林由鬼雄は浜頓別町に在住。かつて西東三鬼に学び、三鬼から一字を頂き「由鬼雄」と名付けて貰ったという。掲句は北海道の遅い春に全てのものの芽が一斉に爆発的に地上に出てくる自然のエネルギーを表している。

 中森千尋の「木の根明く」は最近全国的に知られるようになった北海道の地貌季語で、厳しい自然からのほっとする一瞬を捉えている。

 

 山笑ふ仔牛の太き哺乳瓶                  菊地 穂草

 地震跡の色戻る山代田へと              瀧 菊枝

 

 この七月二日に北光星生誕百年記念俳句大会が、札幌で開催された。掲句はその時の作品であるが、北光星・源鬼彦が提唱してきた路線から外れることなく、実生活と風土に根ざした句ということが出来よう。

 私は「俳句は感動したことを記録し伝えるものだ。そして感動は自ら創造するものである」と思っている。これは俳句の技術ばかりが向上し、実生活と離れていく傾向に対する警鐘のつもりである。どんなに俳句が上手くとも、その作者に感動が無ければ、人に伝わらない。自分に感動が無いのに人に感動を与えようとすると、それは俳句ではなく、言葉の詐欺である。「俳句は下手でも良い。感動する心を磨き、感動を表現する俳句」。それが今「道」の目指している俳句だと思っている。勿論創刊時の「風土に根ざした開拓精神」の上に立ってのことである。 

俳句四季2021年1月号」より

「道」 創刊六十五周年

主宰   田湯 岬


「道」は昭和三十一年(1956年)に北光星等八名が、細谷源二の「氷原帯」を離れ、

同人誌「礫」としてスタートした。それは結社での自由な発表と評論の制約を嫌っての自立であった。十年後の昭和四十一年に共同俳句雑誌「扉」となり、さらに昭和四十七年に北光星を主宰とする結社誌「道」となった。

 結社誌を嫌って同人誌として発足したが、創刊から十六年を経て、結社誌にその形態を回帰したことになる。

 回帰したのは組織の形態のみでなく、俳句そのものも伝統へと回帰した。北光星はそれを「俳句宣言」として「道」誌に掲載している。ここにその全文を掲載する。

 「俳句とは有季定型を基調とし伝統形式を大切に、現代の生活意識を内容にこめた、日本の感性の詩ごえである。そして厳粛性と抒情性と現実性を一句にもち、生命の証を刻み、明日への人生に何らかの示唆と感動を与えるものだ。俳句は型 型は心 心は伝統」

 私はこの北光星の「俳句宣言」に魅かれて「道」に入会した。今もこの精神は生き続けており、今後も「道」のテーゼとして守り続けて行こうと思っている。

 現在結社を嫌い、ネットを通じての自由な俳句活動を続ける若者が増加している。六十五年前、北光星も同じように、結社を飛び出して同人誌を創刊、今日の「道」に至っている。そのことを意識しつつ、今後の「道」の運営をして行こうとおもっている。

俳壇2020年2月号」より

結社の声―わが主張

「道」 主宰 源 鬼彦

 

●結社の成り立ち・歴史

「道」は令和元年十月号で通巻六二六号になる。これは六十三年を経ての通巻の数字であるが、先師北光星などの先人の血と汗と涙がベースにあるのは、確実な「道」の歴史なのである。

 「道」の創刊は、昭和三十一年に北光星を中心と九名の同志で同人俳句雑誌「礫」を発行したことによる。その後の昭和四十一年に、「共同俳句雑誌」と銘打って「扉」と改題した。これは同人俳句雑誌の閉鎖性を打破したいというもので「礫」時代の課題を踏まえている。しかし同人俳句雑誌でもなく結社俳句雑誌でもない、前代未聞の新しい句共同俳句雑誌の定義が曖昧であったためか短命で終刊。そして昭和四十七年に北光星を主宰とする「道」となる。

キャッチフレーズめくが 「礫」を放ち、「扉」を開き、「道」を行く ということになろうか。月刊での発行は この時から定着していることも、「道」の会員を増大させたといえよう。

 

●わが主張

 さて「礫」時代から一貫している俳句の理念は「北海道の厳しい風土に根ざした開拓精神をもって、俳句活動をする」が中心であるが、 具体的事例として北光星の<大工俳句>や中村耕人の<農民俳句>などの<働く者の俳句>が主流になっている。しかし北光星は、大工を止めると大工を題材とした俳句は一切作句しない、という徹底ぶりではあったものの、<開拓精神で俳句活動>は受け継がれて、今日まで続いている。

 作句の姿勢は従来の無季・不定型容認からすべからく転換をして、いわゆる伝統への回帰ともいうべき次の考え方を表している。

 

 俳句とは有季定型を基調とし、伝統形式を大切に現代意識を内容にこめた、日本人の感性の詩ごえである。

 

 これを土台として<俳句は型・型は心・心は伝統>に昇華したが、これが「道」の俳句信条として現在も雑誌「道」の目次の上に表記されている。

 ところで創刊主宰の北光星は平成十三年に身罷ったが、二代目の主宰に源鬼彦が就任して現在に至っている。源鬼彦の俳句信条は<俳句とは風土が生む命の起き臥しから授かる詩である>であり、北光星の俳句信条は俳句というものの定義を総体的に述べているのに対して、源鬼彦の俳句信条は風土に重きを置いて、風土により着目をするとともに、そこから俳句は授かるものであるという点に力点を置く。

 当然のことながら北光星の俳句信条を土台にしているが、現代の俳句が忘れかけようとしている風土を俳句の核に据えるべきとの考え方で、このことは現代の俳句に対する警鐘を含めている。

 このところの俳句は、北海道の俳人であっても開拓精神を埒外とするかの作品が多いと思っている。考えるまでもなく、現代の俳人の生活そのものが従来ほど風土や開拓を意識しないで済むという時代の背景はある。従って詠うべき題材が、苛酷な北海道の気象や開拓の辛酸を対象としないのは当然かもしれない。ではあるけれども、だからこそ、北海道の風土や開拓精神をベースにした俳句を作るのは大切と心得ている。全国どこの地でも当然風土はある。風土性のない全国一律の俳句が現代俳句の主流では如何なものか、と思うのだ。

 それと今一つは<授かる>という考え方である。風土とはその土地の特有な気候や地味などに限らず、歴史や文化を内包すると考える。さすれば先人の培った労苦に思いを致す

とともに、その思いなどを授かる姿勢で俳句に関わるべきではないか、との考え方である。

 以上のように、俳人たる者は先人の労苦を受け継いで現代を生きていることを、俳句を通じて人々に伝えるべきとの思いである。「道」の会員は北海道を中心に全国に跨っているが、その土地土地の風土から授かった俳句を発表していると思っている。

●年間活動報告

 さて、「道」では一年に二つの行事を行っている。一つは半年に及ぶかという雪の季節を終えた五月頃に実施している「吟行俳句大会」である。令和元年には、六月には道東の北見市で行った。この吟行俳句大会は北海道の名所などで実施している。

 今一つは十月に実施している「全国俳句大会」である。開催場所は例年札幌市と固定していて、その前日には「同人会議」を行う。その会議では一年間の「道」の運行など議題とするとともに、意見交換の場となっている。「吟行俳句大会」」「全国俳句大会」では、共に会員の句集出版記念祝賀会を実施するのが恒例である。「道」の和やかな雰囲気作りにお貢献しているようだ。令和元年には、この他にも新ひだか町の「ぺてかり吟社」の七十周年記念行事として、源鬼彦第5句碑除幕式が晴天の中で行われたことも付記しておきたい。

 「道」の支部結成状況は北海道内が二十九支部、北海道外が五支部となっているが、その地の幹部同人などのリーダーが指導者になって、毎月一回ないしは二回の句会を実施している。従って会員同士の絆は深い。また、札幌市とその近郊の支部で「札幌連絡協議会」

を設けて、支部間の意思の疎通を図るとともに、毎年支部長会議を実施して、課題解決に取り組んでいる。そして独自の施策として十二月には「忘年俳句大会」を行っている。そのことから、北海道は広域なので北海道を四つに分割して連絡協議会を作るべし、との声も上がっているところである。

 いずれにしても、日本全国から北海道に新天地を求めて渡ってきた先人の開拓精神こそが俳句の原点である、という気概を胸に、今後も「道」は歩む覚悟である。

 

・追記

源鬼彦先生は令和二年五月十一日に逝去されました。

「道」俳句会ではしばらくこの文面を当ホームページに載せ 北海道内外の広く俳人の方々や俳句を愛する人に読んでいただけるようにしたいと思います。お読みいただきまして有難うございます。